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♪ いつでもどんな時でも《前に進む道しかない》

西日本一周旅行をする(55)

ずっと思っていた・大人になりたくない・頭から離れなかった・やはりトラウマから抜け出せないのだろうか・・もうすぐ50歳になるというのに、、

この年まで色々と経験をしたつもりだが何かやり残した事はないだろうかと自問自答すれば・子供がいない・それがなんとなく心残りのような気がしていた。

  子供がいなかったから好き勝手なことをやってこれたのだろうが・・

この日もいつもの様に夜になると飲みに出かけた、宗右衛門町通りの角を曲がるとスタッフの誰かが呼び込みをしてるラウンジがある・呼び込みをする店は多少ランクが落ちる・雰囲気やサービスに課題があり常連客が定着しないのだ、この店もテーブルについてもなにかしら温かみを感じない・そんな店だった。

それでも午前3~4時まで営業してるので帰りにもう一杯という時に寄っていた、この夜も入店すると初対面の女の子が正面に座った、なにかぎこちなくオドオドとして会話が苦手のようだし表情も冴えない・・

聞いてみるとこの店で二月になり寮住まいをしているとか、その寮はおいらの所から歩いて10分もかからない・・

次に行った時もその子が座ったので何気なく明日寮に行くと話をする、翌日の昼にワンルームマンションに行くと6畳の部屋にはラック 棚も生活用品も何もなくガランとしている・これほど何もないのも珍しい・計画性がないようだ。

彼女曰く・・今20才で親に勘当され縁を切ったので田舎に戻ることはないとか・・話を聞いているうちに何かを食べに行こうかの思いは消滅したので帰ることにした・・

部屋に戻りなんとなく考えてみた、あの店とあの子なら27歳まで店にとどまるかもしれない(感はよく当てる)歳はおいらとは29も離れているが・・どうもほっとけない気がしてきた、2日後に彼女の部屋に行き言葉をかけた・・

このままここで過ごすよりもマシかも知れないのでウチにおいでと誘うとその場で頷いた、翌日に迎えに行き手荷物を持って部屋を後にした・・

ひょんなことから二人の生活が始まった、人の縁は解らない・・一緒に住みだすと彼女の表情に笑顔がでて活き活きとしてきた。

まだ世間を知らないようだし社会勉強になればと近所のスーパー勤めを勧める、スーパーなら食品の良否・仕入れと販売・物価の単価・どのようなお客さんが何を買って今日はどんな料理をするのか、人間ウオッチングが出来て何かと知識になるはずだ・・

元気よく勤めに行き出した・・

年が明けた頃に・私は成人式なの・というので、それではと近くの写真屋さんに行って記念写真を撮ってもらった、その時に彼女に言った、たとえどんな事情があろうと親子の縁は切れることはないので写真でも送って元気でいることを知らせてあげればと、彼女も落ち着いた頃だったので手紙を出したようだ・・

一緒に住みだして3ヶ月が過ぎた頃に中古マンションでも買おうかと玉出駅の近くに3LDKを1LDK(リビング24畳)に改装した部屋があったのでそこに決めて引っ越した、何か新生活が始まったような気がしてきた・・

そうなると毎月の生活費をどのように渡そうか・・月末に手渡しするのは命令下に置いてるようで気乗りがしない、それでは預金通帳を作って入金をしよう、

通帳を持ったことはなかったようだ、今後は何かと必要になるだろう・毎月20万円を入金することに、公共料金等は自動引き落としだし外食も多くおいらのモノは自分で買うタイプだし、食費と生活費だけならへそくりもできるだろう・・

彼女はこれまでに旅行をしたことがなかったようで、あっちこっちへと連れ出し見聞を広めてやろうと車で10日間・山陰・九州・山陽道から四国廻りで戻ろうと計画を立てた、旅費はざーとヤマカンで試算すると合計62万ほどになりそうだ・・

おいらは時間に束縛がないので早速でかけることに、まずは新聞広告に載っていた豊岡の竹野でフグを食べ一泊・翌日は米子の皆生温泉は食塩泉で珍しいのでここに泊まる・山陰道を走り関門トンネルを通り、日曜日午後に小倉競馬場に着く、

これはおいらの予定通りだった、資金は3万円で彼女には6千円と競馬新聞を渡し、馬の名前でも好きな数字でも何でもいいから1レース千円を買って遊んでみればと・・

7Rからスタート・買い方は三連複5頭BOXと軸馬一頭5点流し・7レースはハズレ・8R・9Rと的中しだし当たれば投資金額を増やした~12Rを終えてなんとプラス64万円になった、こんなこともあるんだ~信じられない~これで旅行費用は丸々浮いてしまった・・旅先では賭け運があるとは聞いた事はあるが・・

上機嫌で大分から九州7県巡りに車を走らせた、ひと回りして土曜日に再び小倉競馬場に着き、この日も12万円の勝ちになった・・帰りは尾道でラーメンを食べ瀬戸大橋を渡り愛媛から高知へと・・

高知では行きたいところがあった・ジョン万次郎資料館だ、ジョン万次郎の生き様を知った時はワクワクとした・・夢のような人だ・

ジョン万次郎<1827年1月1日生まれ>この人ほど破天荒な運命をたどった人も珍しい、9歳の時に父親を亡くし家計を背負い14歳の初漁で出港した8メートルの漁船はシケで遭難し無人島「鳥島」に漂着する、143日後にアメリカの捕鯨船に助けられ仲間の四人はハワイに降りるが万次郎はアメリカ行きを決意する・・

船長の養子同然に一緒に暮らし、スクールに通い数学・測量・航海術・造船技術などの勉学に励み、卒業後は捕鯨船に乗船し数年の航海の中で世界各地を渡り知る。

その頃・アメリカはゴールドラッシュに沸いていた、万次郎も日本へ帰る資金を稼げるかもとサンフランシスコへ向かい鉱山に行き・採掘職で600ドルを稼ぐ。

これを持ちハワイへと向かい二人の仲間と日本に帰国することに・この時代は鎖国で命の保証はなし・それでも漂流から10年後に沖縄に上陸、約半年の取り調べ後に薩摩へ送られる。

ここ薩摩藩は万次郎の造船技術や知識を理解し、指導の元に越通船を建造した、その後に長崎へ護送されてやっと翌年に土佐に戻れることが出来たという、

1853年・土佐藩では公式な記録「漂客談奇」に記され、やがて「漂巽紀略全4冊」にまとめられ坂本龍馬や多くの幕末志士達に読まれることになる、

土佐藩でも藩校「教授館」の教授に任命され岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)にも教えている、やがて万次郎は幕府に直参の旗本として招聘され江戸へ、名を中濱万次郎として希少な通訳となり、ペリー初来航の際に任務を果たしその後に勝海舟の咸臨丸では事実上の船長として活躍する。

1870年にはフランス視察団員としてヨーロッパへ派遣、この時にアメリカに立ち寄り恩人のホイットフィールド船長と約20年ぶりの再会を果たす、帰国後も小笠原の開拓調査・捕鯨活動・上海渡航・明治政府の開成学校(現東京大学)の教授・アメリカ・ヨーロッパへと働き続けたという・・

何ともすごい人生だ~今も銅像となって足摺岬に立ち海を眺めている・・万次郎の功績は日本よりもアメリカの方が評価が高い・『海外からの米国訪問者展』の29人の中に万次郎は選ばれている。

と言う訳で万次郎資料館を見学して無事帰宅、10日間の旅費は64万円だった・ヤマカンは当たっていた、次は東日本を一ヶ月くらいで旅しようかと話をしてみた。

旅行中になんとなく気になっったことがある、柳川市の立花家史料館を見学の時に一緒に観てたはずなのに・アレ~いなくなってる・探して又一緒に歩き出したが又いなくなってる・・この時に一瞬頭をよぎった・この人はいつか去って行く人なのかも・・まあ~それはそれ・考えてもしょうがない・・

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